「アメリカン・クライム・ストーリー/O・J・シンプソン事件」のキューバ・グッディング・ジュニアが、英オンラインメディアのインタビューに答え、スターを目指した幼少期から映画『ザ・エージェント』の成功、失速、そして復活までの10年間を語っている。
両親共に歌手の家庭に生まれたキューバ。幼少時からエンターテイメントの世界を目指したのは自然の成り行きだった。
「数学の時間はサインの練習をしたものさ。頭の中でオスカーを受け取るスピーチ姿を思い浮かべることもあったね」
その空想は、そんなに遠くない未来に叶うことになる。1996年、28歳の時に出演した、映画『ザ・エージェント』 が大ヒット。キューバの台詞“Show Me the Money!”は流行語に。そして翌年、アカデミー賞助演男優賞を受賞、キューバの人生最高の時だった。
まだ30歳前の生意気盛り。キューバは名誉もマネーも手に入れ、その生活も性格も一変した。
「僕の母と妻の母の2人にそれぞれ家を買ってあげた。移動はプライベートジェット機やリムジンだ。ところが突然、一文無しになっちゃった」
『ザ・エージェント』撮影時、監督のキャメロン・クロウから、「優れた監督とだけ仕事をしなさい」とアドバイスを受けた。『ザ・エージェント』 で好演したキューバには数々のオファーが舞い込み、その中には優れた監督の作品もたくさんあった。スティーヴン・スピルバーグの『アミスタッド』、マイケル・マンの『コラテラル』、そしてテイラー・ハックフォードの『Ray/レイ』…。
「皆、僕に役をオファーしてくれた。だけど僕は脚本を読んで、言ったものさ、『これは僕に合わない』ってね。そうやって大物監督を拒み続けた結果、僕の名前は彼らの頭から消えてしまったわけさ」
2000年代も半ばになると、キューバの名前は忘れ去られたかのように、大作のオファーがなくなった。出る作品、出る作品、劇場公開さえなく未公開のままDVD化されていった。
失意の10年間を経て、キューバはクロウ監督のアドバイスを実行し始めた。たとえ主役でなくても、優れた監督の仕事だけやってみよう。
リー・ダニエルズの『大統領の執事の涙』、ロバート・ロドリゲスの『マチェーテ・キルズ』、そして「アメリカン・クライム・ストーリー/O・J・シンプソン事件」。
「僕の耳に入ったのは、“ライアン・マーフィー”という名前だけだった。“O・J”なんて聞こえなかった。とにかく僕は何をすればいいんだって!」
最初にオファーの話を聞いた時の興奮を思い出す。あの業界の風雲児マーフィーが声を掛けてくれたことが嬉しかったのだ。以前なら、決して引き受けなかった悪役も気にならなかった。
外見の似ていないキューバをO・J役にキャストしたことには、話題性優先との批判もあった。しかし、キューバは少しでも外見が似るように、そして声をまねるようにコーチについてレッスンを重ねた。O・J役に全身全霊をささげ、その結果、「アメリカン・クライム・ストーリー/O・J・シンプソン事件」は当時のTV界の話題をさらう大ヒットとなった。
キューバは現在、ロンドンのシアター・カンパニーとともにミュージカル「シカゴ」の舞台に立っている。主演のビリー・フリン役。50歳の体に鞭を打ち、汗を流す毎日だ。意外にもミュージカルは初挑戦。役が自分に合わないではなく、役に自分を合わせる。もう二度と忘れ去られるのは御免なのだ。
<「theguardian.com」 3月31日>